キムがみた「子どもの風景」

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 18人の子ども達が葛巻を去り2日目の朝を迎えています。子どもはいない、でも子ども達が刻んだ思いはイグルーという形として残っています。しかし、家主を失ったイグルーは季節の移ろいという自然の摂理に身を任せ、日々その姿形を変えて、いずれは水となり大地を潤します。水を含んだ春の大地には野芝が逞しく背伸びをし、春の訪れを密かに演出してくれます。子ども達の思いが巡り巡って春を手招きしたのだろうかと思うと、寂しさも少しは和らぐ気がします。
 
 子ども達が去ったあと、数日は落ち着いてキャンプの振り返りを行います。その間、毎回自問自答を繰り返します。「スノーワンダーランドを通じて子ども達に伝えたかったことはなんだろう」と。言葉で説明することは簡単です。しかし、説明した後に何か説明に物足りなさを感じるのです。心の奥底で感じているその何かを上手く表現できていない気になるのです。それは私の表現力の無さかもしれません。
 
 そんな時、私はいつも子ども達が見た風景を回想し、自分の少年時代の自然体験を通じて感じた様々な思いとリンクさせます。たとえば、雪中泊の朝、子ども達が起床しイグルーから出るその瞬間の映像を。



 この風景に子ども達は何を見たのだろう。スノーワンダーランドは小学校1年生から中学校2年生の18名が参加しました。見た風景は同じでも、身につけた言語数に差があるため、感動の表現にはもちろん大きな差が生まれます。しかし、どんなにボキャブラリーが豊富でも心では分かっているが説明できないことがたくさんあることに気がつきます。きっと、イグルーからみたこの風景にも、子ども達はそれぞれに生涯に残る感動を記憶していることでしょう。
 
 私の少年期の記憶を辿ると、子どもの頃の私は暗くなるまで野や小川で友人と遊びに熱中しました。特にも昆虫採集は最高に楽しく、夏になると近くの農業試験場(盛岡市厨川:東北農試)に通うのが日課でした。そこには無数のトノサマバッタが現れ、それは触れると背中がざらざらしていて、どこか青臭く、手のひらに乗せると脚力の強さに驚き、そんなトノサマバッタを夢中で追っているといつの間にかデントコーン畑の真ん中で出口の方向を見失い、脱出した頃には手足に無数の傷。つまり、トノサマバッタは見るだけのものではなくましてや図鑑で調べるようなものではなかったのです。まさに身体と五感を全て用いて知ることのできる自然界の教材であったことがいまだから理解できます。このように、かつての子ども達の生活体験は非常に豊かなものだったと感じています。そして、学習は豊かな体験を基盤に行われていたからこそ、私たちは普遍的な知識を学習するに際して、それと自分との位置関係を、多くの豊かな体験から計ることができたのでしょう。ともすると、今、私たちの身の回りには既成のモノやコトが溢れすぎて、創造するというごく当たり前の行為が習慣化されていないことに気がつきます。
 
 スノーワンダーランドのイグルーは、既成品ではありません。さらには活動全般が創造的な暮らしです。子ども達は2週間の生活を通じて仲間と対立し相互理解し創造するという現代の社会に欠落している大切なプロセスを経験する、そのことにスノーワンダーランドの意義があると信じています。
キム

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